ごんが語る昔の暮らし
はじめに
ボクは小ぎつねのごん。新美南吉記念館がある中山から少しはなれた山の中に住んでいるよ。ここではボクがみんなを案内しよう。
ボクはひとりぼっちだから、よく人間たちの村へ遊びにいくよ。兵十さんはまたイタズラをしに来たと怒っているみたいだけどね。
でも兵十さんたちの暮らしって、ボクたち動物とは全然違うから、とてもおもしろいんだ。キミたちにとっても、今の暮らしとはけっこう違うからおもしろいんじゃないかな?
今とは違ってテレビや携帯電話はもちろん、電気さえないけど、村人どうし力を合わせ、いろいろと工夫して生活していたんだ。
それじゃ、一緒に兵十さんたちの暮らしを見ていこう。
米づくり中心だった農村の暮らし
江戸時代の農村は、農作業、とくに米づくりを中心に一年がまわっていたんだ。米は年貢(今の税金)として殿様に収めなくてはいけないからね。
四季がある日本では、農作業は季節にあわせてすることがこまかく決まっていた。村人の楽しみだった春や秋のお祭りも、豊作を願ったり、収穫を感謝する意味があるんだ。
それから、米づくりに大切なのは水だね。ため池の修理や水路の掃除、水を平等に配るために交代で務める水番など、村びとたちは助け合って働いた。雨が降ってもすぐ海に流れてしまい、いつも水不足だった知多半島では、とくに力を合わせて大切な水を守っていたんだ。
昔の米作り(江戸時代~昭和初期)
<春>
- 田起こし
- 牛や馬に犂をひかせて、田んぼをたがやす。
- 種まき
- 種籾をまいて苗をつくる。苗はある程度の大きさになるまで苗代で育てる。
- 代掻き
- 田んぼに水をはり、牛や馬に整田機をひかせて土を細かくくだき、平らにならす。
<梅雨>
- 田植え
- 水をはった田んぼに苗をひとつひとつ手で植える。
<夏>
- 除草
- 稲の成長をじゃまする雑草を雁爪や除草機を使ってとる。
<秋>
- 刈り取り
- 実った稲を鎌で一株ずつ刈り取る。
- はざかけ
- 刈り取ったばかりの稲籾は水分が多いので、束にして横に渡した棒にひっかけ、太陽の光と風にあてて乾かす。
- 脱穀
- 稲の穂から籾を取り外す。江戸時代から明治時代には千歯こきが使われ、大正時代には足踏式脱穀機が発明された。籾をとった後の藁はまとめて積んで「つぼけ」にした。
- 籾すり
- 籾を土臼でひき、籾殻をはずす。
- 籾殻と玄米を分ける
- 唐箕を使い、籾殻や藁くずを吹き飛ばし、玄米だけを取り出す。
- 米の量を測り、米俵に詰める。
- 一斗枡に米を入れ、「とかき」でならして一斗ぴったりの量を量る。量った米は「じょうご」をつかって米俵に詰める。(1俵)=4斗、1斗=10升、1升=10合
はりきりってはりきり網?
米づくりが中心だった農村でも、川や池で魚をとっておかずにすることはよくあったんだ。田んぼと川の間で魚が自由に行き来できて、農薬や化学肥料を使わなかった昔はたくさん魚がいたからね。ウナギやドジョウ、コイ、フナ、それにこのあたりではキスと呼んでいた魚(ハヤの仲間)も食べたよ。
兵十さんがしていた「はりきり網」は、大雨で池の水があふれ出すような時、その下で川幅いっぱいに網を「はりきって」使うからそう呼ぶんだ。
「はりきり網」は大人がする漁だけど、子どもたちも網や罠で川魚を獲る「ぽんつく」は大好きだった。とくに田んぼの仕事が終わる秋ごろに池の水を抜いて底ざらえをするときは、大人も子どもも一緒に泥んこになりながら魚をとっていて楽しそうだったなぁ。
いわしのだらやすー
昔の農村では、たいていのものを自分たちでつくっていたけど、外から買わなくちゃいけないものも当然あったんだ。そうしたものを運んできて売ってくれるのが行商人だ。魚や薬、こまもの(日用雑貨)などを天びん棒や荷車に積んでやってきた。いまはコンビニもあるし、インターネットで買い物もできるけど、昔はそんなものはなかったから、行商人はありがたい存在だったんだね。
ありがたいことがもうひとつある。昔はテレビもインターネットもなかったから、外のできごとはなかなか伝わってこなかった。でも行商人は町から町へ、村から村へと売り歩いているからいろんなことを知っていた。だから村びとたちは物を買うだけではなく、いっしょにニュースも聞いていたんだ。
歯が真っ黒!?
今日、村に行ったら弥助のおかみさんがお歯黒をつけていて、新兵衛のおかみさんは髪をすいていたよ。
え、お歯黒ってなにって?昔はね、結婚した女の人が歯を黒く染めていたんだよ。壺にお茶と釘、酒などを入れて置いておくとできる汁と、虫がヌルデという木に寄生してできる「むしこぶ」を粉にしたものを塗ると、歯が黒く染まるんだ。
南吉さんのふるさとの岩滑でも「ごんぎつね」が書かれた昭和のはじめまでは、まだお歯黒をしている人がいたんだって。でもいまはだれもそんなことはしない。人間のおしゃれって時代によってずいぶん変わるんだね。
お葬式で白!?
いまのお葬式にはみんな黒い服を着るよね。でも太平洋戦争が終わるころまでは白い着物が当たり前だったんだ。亡くなった人と同じ格好をするんだね。だからお話のなかで、兵十さんも白い裃を着ているよ。
葬儀会社や葬儀会館もないから、男の人がだんどりをし、女の人が食事をつくって、村びとの手で葬式をしたんだ。それから霊きゅう車もないから、野辺送りといって、みんな墓地や焼き場へお棺を運んでいったんだよ。
この「みんなでする」というのは農村ではとても大事なことだったみたいだ。葬式だけじゃなく、結婚するときや道路を直すとき、普段の農作業でもみんなが協力して助け合っていた。だから日ごろから近所づきあいを大切にし、親しい関係をつくっていたんだね。
兵十の家へようこそ
今日も山で栗をひろって来たよ。家のなかに兵十さんはいないみたいだから、いまのうちに置いておこう。ボクが住んでる洞穴には何もないけど、人間の家にはいろんなものがあっておもしろいなぁ。
昔の家といっても畳や囲炉裏はないよ。畳はぜいたくだから江戸時代の普通の農家では使わなかったんだ。囲炉裏も知多半島は温かいから必要ないんだね。
いまの家と違うのは土間があることだ。このあたりでは「ニワ」といって、いろんな仕事をする大事な場所だ。土間がある代わりに廊下はないよ。部屋はふすまで仕切られているだけで、上から見ると「田」の字型になっている。「四つ建て」といって、 南吉さんが養子に行った新美家もこの形だね。
赤い井戸と黒い井戸
「ごんぎつね」では兵十さんが赤い井戸のところで麦をといでいる場面がでてくる。この赤い井戸は、むかし、常滑でつくられていた焼き物の井戸わくなんだ。このあたりの土には鉄分が多いから焼くと赤っぽくなるんだね。南吉さんが生まれた大正時代になると、釉薬という薬をかけて黒くりっぱに仕上げたものがはやって、赤い井戸はあまりつくられなくなった。
「ごんぎつね」は江戸時代の話だし、兵十さんの家は貧しいから、素朴な赤い井戸のほうがよかったんだね。
藁ってすごい
農村では米や麦を作っていたから、たくさんの藁があった。村人はこの藁を上手に使って、生活に必要なものを作っていたんだ。
藁からは、米を入れる米俵、敷物などにする筵、足に履く草履や草鞋、頭にかむる笠、雨の日に着る蓑など、びっくりするぐらいいろんなものができるよ。昼間は田んぼや畑で働くから、藁仕事は「夜なべ」といって夜にすることが多かった。お年寄や子どもでもできるから、家中で作って、自分たちで使わない分は売ってお金をかせいでいたんだ。きっと兵十さんもおっ母が亡くなるまでは、二人でいっしょに作っていたんだろうな。
南吉さんのふるさとの岩滑では、子どもたちが小遣いかせぎに大麦の藁で「ビール菰」(藁づと)を編んでいた。ビール瓶が割れないように包むもので、半田にあったカブトビールの工場で使ったんだ。
農村と火縄銃
「ごんぎつね」の最後の場面でボクは兵十さんの火縄銃で撃たれてしまう。どうして兵十さんは火縄銃なんて持っていたんだろう?
歴史の教科書では、「刀狩」といって豊臣秀吉が農民から刀や鉄砲を取り上げたと書かれている。でも、実際には、その後もたくさんの鉄砲が農村にあったんだ。
なかには隠し持っていた鉄砲もあっただろうけど、公式にはお殿様から許可をもらって持つものだった。そうした鉄砲は、村を盗賊から守るための「用心鉄砲」、ボクたちのような獣や鳥から農作物を守るための「おどし鉄砲」、猟師が狩りをするための「猟師鉄砲」に分けられたんだ。
じゃあ、兵十さんの場合はどうだろう。作品のなかには百姓とも猟師とも書かれていない。でも、どちらにしても兵十さんにとっての火縄銃は生きていくために欠かせない道具で、決して趣味で持っていたわけではなかったんだ。