
ごんぎつね
第一章
これは、わたしが小さいときに、村の茂平 というおじいさんから聞いたお話です。

昔は、
わたしたちの村
わたしたちの村 「ごんぎつね」の作者、新美南吉は、1913年(大正2年)に愛知県知多郡半田町(今の半田市)の岩滑に生まれました。
の近くの
中山
中山
「愛知県半田市岩滑西町1丁目、現在、「童話の森」になっている丘のこと。昔、この辺りは字中山と呼ばれていました。今、丘のふもとには新美南吉記念館が建っています。
という所に、
小さなお城
小さなお城
戦国時代、中山には岩滑を治めていた中山勝時の城があったと伝えられています。しかし、実際は岩滑の町の常福院がある辺りにあった岩滑城が中山家の居城だと考えられています。
があって、
中山様
中山様
戦国時代から江戸時代のはじめにかけて岩滑を治めていた中山家のこと。天文12(1543)年に岩滑城主となった中山勝時は、今の知多郡東浦町や刈谷市で勢力を持っていた水野家の家臣で、後に織田信長にも仕えました。水野家の娘で徳川家康を生んだ於大の方の妹を妻にしていたため、家康の叔父にあたります。息子たちは水野家の家老をつとめたり、幕府に仕えるなどしましたが、なかには尾張藩で兵学を教えた家もありました。後にその子孫が岩滑に移り住み、南吉と深い交流がありました。
というおとの様がおられたそうです。
その中山から
少しはなれた山
すこしはなれた山 中山から北へ900メートルほどはなれたところに、権現山があります。南吉がノートに書いた「ごんぎつね」(権狐)では、漢字で「権狐」と書かれていることから、ごんが住んでいた「少しはなれた山」とは、権現山ではないかと言われています。
の中に、「
ごんぎつね
ごんぎつね
南吉のふるさとに「ごんぎつね」というキツネが本当にいたわけではありません。しかし、南吉が中学生の頃、中山のあたりにキツネが住み、村人から六蔵狐と呼ばれていました。六蔵狐は、畑仕事のお百姓から弁当の残りを分けてもらっていましたが、ある日、お百姓が忘れたタバコ入れを家まで届けたと言われ、狐の恩返しとして語り伝えられました。六蔵狐が死んだ時には村人がお稲荷様としてまつるということもありました。南吉もそんな人間と近い関係を持つキツネに興味を覚えたのか、中学時代に「六蔵狐」という童謡をつくっているので、もしかしたら、このキツネが「ごんぎつね」のヒントになっているかもしれません。
」という
きつね
きつね
ネズミなどの小動物や鳥、こん虫などを食べるイヌ科の動物。日本にはアカギツネの亜種であるホンドギツネとキタキツネが生息します。昔からいたずら好きで人を化かすと言われ、多くの昔話に登場します。その一方、稲荷社では神の使いとして信仰されるなど、さまざまな面で人間と関わりの深い生き物といえます。
がいました。ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、
しだ
しだ
主に日かげや湿ったところに生える植物で、そうした場所にキツネが巣をつくることはあまりありません。ただ、コシダは日当たりのよいやや乾そうした場所を好んで群生します。
のいっぱいしげった森の中に、あなをほって住んでいました。
そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。畑へ入って
いも
いも 日本では古くからサトイモが栽培されていました。また、江戸時代にはサツマイモやジャガイモも広まりました。
をほり散らしたり、
菜種がら
菜種がら
菜種は、アブラナの種子で、油をしぼって食用や火を灯すことに使います。採り入れは、根から抜き、乾そうさせて、種を竹や棒でたたき落としました。残った部分を干して乾かしたものを菜種がらと言い、よく燃えるため、カマドのたきつけに使いました。
のほしてあるのへ火をつけたり、
百姓家のうら手
百姓家のうら手
背戸口(裏口)から出ると、井戸、流しがあり、家によっては倉や風よけの竹林などが見られます。
※写真は新美南吉の養家(公益財団法人かみや美術館分館「南吉の家」)
につるしてある
とんがらし
とんがらし トウガラシ(唐辛子)のこと。アメリカ大陸の原産で、日本へは戦国時代に伝わりました。果皮、種子が辛く、料理や薬味に使います。保存のため、軒下など雨のあたらない所につり下げて乾そうさせます。
をむしり取っていったり、いろんなことをしました。

ある秋のことでした。二、三日雨がふり続いたその間、ごんは、外へも出られなくて、あなの中にしゃがんでいました。
雨があがると、ごんは、ほっとしてあなからはい出ました。空はからっと晴れていて、
もず
もず
するどい声で鳴く大きさ20cmほどの小鳥。カエルなどの捕まえた生き物を食べずに木の枝に刺しておく「モズの早にえ」と呼ばれる習性を持ちます。
の声がキンキンひびいていました。

ごんは、
村の小川
村の小川 岩滑の北がわ、半田市と阿久比町の境に矢勝川が流れています。裏の川という意味で「背戸川」とも言いました。
のつつみまで出てきました。あたりの
すすき
すすき
秋の七草の一つ。野山に生える多年草で、高さ2mほどにもなり、白い尾のような花をつけるためオバナとも言います。また、カヤとも言われ、屋根をふく材料にもなります。
のほには、まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水が少ないのですが、三日もの雨で、水がどっとましていました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや
はぎ
はぎ
秋の七草の一つ。夏の終わりから秋にかけて紅紫の小さな花をつける小低木。写真はマルバハギ。
のかぶが、黄色くにごった水に横だおしになって、もまれています。ごんは、川下の方へと、ぬかるみ道を歩いていきました。
ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深い所へ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。

「
兵十
兵十 兵十は、「ごんぎつね」が書かれた頃、実際に岩滑新田に住んでいた江端兵重という人がモデルだと言われています。川や池での魚とりや鉄砲を使った猟が大好きで、大雨の時は必ず「はりきり」をしていたそうです。
だな。」と、ごんは思いました。兵十は、ぼろぼろの黒い着物をまくし上げて、こしのところまで水にひたりながら、魚をとる
はりきり
はりきり
川ぞこに杭を打って川幅いっぱいに網を張り、その真ん中に付いている筒形の網に入った魚を獲ります。使う川に合わせて作るので大きさはまちまちですが、新美南吉記念館に寄贈されたものは6メートルほどの長さがあります。普通は待網と言いますが、岩滑では網を川幅いっぱいに張り切るという意味で「はりきり」と呼びました。
というあみをゆすぶっていました。
はちまき
はちまき
気合を入れたりするために頭のまわりに手ぬぐいなどの布を巻くこと。固くねじって頭に巻く「ねじりはちまき」や、結び目を額に置く「向こうはちまき」があります。
をした顔の横っちょうに、円いはぎの葉が一まい、大きなほくろみたいにへばりついていました。
しばらくすると、兵十は、はりきりあみのいちばん後ろのふくろのようになったところを、水の中から持ち上げました。その中には、しばの根や、草の葉や、くさった木切れなどが、ごちゃごちゃ入っていましたが、でも、ところどころ、白い物がきらきら光っています。それは、太い
うなぎ
うなぎ 長さ1メートルほどになる細長い魚。海で生まれた稚魚が川をさかのぼり、川や池で大きく育った後、ふたたび海にくだって産卵をします。栄養価の高い魚として、古くから食べられてきました。
提供:碧南海浜水族館
のはらや、大きな
きす
きす 岩滑では、鮠のことをキスと呼んでいました。ハヤとはアブラハヤ、ウグイ、オイカワ、カワムツなど、コイ科の淡水魚のうち中型で細長い形をしたものの呼び方で、ハエとも言います。写真はオイカワ。
提供:碧南海浜水族館
のはらでした。兵十は、
びく
びく つかまえた魚を入れておくために竹であんだかご。半田では「どうまん」と言いました。
の中へ、そのうなぎやきすを、ごみといっしょにぶちこみました。そして、また、
ふくろの口
ふくろの口
たてに長いはりきり網は、最後の部分がふくろのようになっています。入った魚が逃げないようにしばってあるので、ときどき開けては、魚を取り出したり、入りこんだ木ぎれなどのゴミを出したりする必要がありました。
をしばって、水の中へ入れました。

兵十は、それから、びくを持って川から上がり、びくを土手に置いといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。
兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中から飛び出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんは、びくの中の魚をつかみ出しては、はりきりあみのかかっている所より下手の川の中を目がけて、ぽんぽん投げこみました。どの魚も、トボンと音を立てながら、にごった水の中へもぐりこみました。

いちばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、なにしろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんは、じれったくなって、頭をびくの中につっこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッといって、ごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向こうから、
「うわあ、ぬすっとぎつねめ。」
とどなり立てました。ごんは、びっくりして飛び上がりました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままはなれません。ごんは、そのまま横っ飛びに飛び出して、一生けんめいににげていきました。
ほらあなの近くの
はんの木
はんの木 山野の湿った場所に生える落葉高木。田んぼのあぜや川の堤などによく見られ、高さ15~20メートルにもなります。建築や燃料に使われます。
の下でふり返ってみましたが、兵十は追っかけては来ませんでした。
ごんはほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっと外して、あなの外の草の葉の上にのせておきました。


第二章
十日ほどたって、ごんが弥助という
お百姓
お百姓 米などの農作物を作ることで暮らしている人々。農民。江戸時代には、武士や町人などのように身分を表す言葉でもありました。
のうちのうらを通りかかりますと、そこの
いちじく
いちじく 古くから栽培されてきたアラビア原産の果物。日本には江戸時代に伝わりました。漢字では「無花果」と書き、その名の通り、花をつけずに実がなりますが、じつは実のなかに小さな無数の花をつけています。
の木のかげで、弥助の
家内
家内 自分の妻を呼ぶ言い方の一つ。
が、
お歯黒
お歯黒
結婚した女性が歯を黒く染める風習。つぼに茶、くぎ、す、酒を入れて置いておくとできる汁と、虫がヌルデという木に寄生してできる「むしこぶ」を粉にしたものをぬると歯が黒く染まります。岩滑では、「ごんぎつね」が書かれた昭和のはじめまでは、まだお歯黒をしている人がいました。
をつけていました。
かじ屋
かじ屋
炭、コークス(石炭を加工したもの)の火で金属を焼いて、打ちきたえて、農具や刃物を作ることを仕事にしている人。知多半島では大野(現在の常滑市大野町)の「大野かじ」が有名です。南吉の生家の近所にもかじ屋がありあした。
の新兵衛のうちのうらを通ると、新兵衛の家内が、
かみをすいて
かみをすいて
かみを櫛の歯にかけておとすこと。風呂に入ったり、かみを洗うことがあまりできなかった時代には、かみを整えるだけでなく、フケやホコリなどかみの汚れをとる意味もありました。
いました。ごんは、「ふふん、村に何かあるんだな。」と思いました。「なんだろう、秋祭りかな。祭りなら、たいこや笛の音がしそうなものだ。それにだいいち、お宮に
のぼり
のぼり
丈が長くて幅がせまい布に、多くの乳をつけて、柱や竿に通して立てたもの。神社の祭りや相撲の会場で立てるほか、昔は合戦の際の軍旗としても使いました。
が立つはずだが。」


こんなことを考えながらやって来ますと、いつのまにか、表に
赤い井戸
赤い井戸 うわ薬をつけていない、素焼きの土管を使った井戸のこと。半田のとなりの常滑で焼かれたものを用い、赤茶色の地肌をしています。かつて南吉の生家の向かいにもあり、南吉が毎日使っていた井戸もこの井戸でした。
のある兵十のうちの前へ来ました。その小さなこわれかけた家の中には、おおぜいの人が集まっていました。よそ行きの着物を着て、こしに手ぬぐいをさげたりした女たちが、
表のかまど
表のかまど
かまどは、鍋や釜をかけて下から火を焚くために、土や石、レンガなどで築いた設備。「くど」「へっつい」とも言います。普段は屋内にあるものを使いますが、葬儀など大勢の人が集まるときは、食事の用意を大がかりにするため、屋外に作って煮炊きをしました。
で火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました。
「ああ、そうしきだ。」と、ごんは思いました。「兵十のうちのだれが死んだんだろう。」
お昼がすぎると、ごんは、
村の墓地
村の墓地 昔はそれぞれの村が村はずれに墓地を持っていました。岩滑の場合、現在の公民館や区民館のあたりに墓地があり、ここが村はずれでした。この墓地は、「ごんぎつね」が書かれた2年後の昭和8年に、半田の他の地区の墓地と一緒になり、いまの北谷墓地に移されました。
写真は北谷墓地
へ行って、
六地蔵
六地蔵 仏教では、すべての生き物は六種の世界に生まれ変わりをくり返すという考え方(六道輪廻)があり、どの世界でも地蔵菩薩が救ってくれるようにと六体の地蔵像を並べてまつりました。墓地の入口に置かれることが多く、岩滑の墓地にあった六地蔵は、現在の北谷墓地(共同墓地)の入口に移されています。
さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠く向こうには、お城の屋根がわらが光っています。墓地には、
ひがん花
ひがん花
田畑のあぜや川岸などに群生する球根性植物。日本に稲作が伝わった際に一緒に大陸からやって来たと考えられています。秋の彼岸のころに茎を伸ばし、赤い花をつけます。花が枯れ、茎が倒れたあとの冬に葉を出し、夏は球根だけが地中で眠っています。ソウレンバナ、キツネバナ、ミミダレソウなど、各地でさまざまな呼び名があり、仏教に由来してマンジュシャゲとも言います。田んぼや墓地のまわりでよく見かけますが、球根に毒があるので、そうした場所が動物に荒らされるのをさけるために植えられたものです。また、飢きんのときは、球根のデンプンをさらして毒を抜き、食用にすることもありました。
が、赤いきれのようにさき続いていました。と、村の方から、
カーン、カーンとかねが鳴ってきました。
カーン、カーンとかねが鳴ってきました
死んだ人を納めた棺を墓地や焼き場まで運ぶ際、かねをたたいて村を回り、葬列の出発を知らせました。
そうしきの出る合図です。
やがて、
白い着物を着たそうれつ
白い着物を着たそうれつ そうれつは、死んだ人を納めた棺をかつぎ、墓地や焼き場までみんなで歩くこと。昔は「野辺送り」と言いました。喪主が位牌を持ち、棺をかつぐ人、幡を持つ人など、役割が決まっていました。また、今の葬式では黒い服を着ますが、戦前までは白い着物を着るのが普通でした。
写真:大府市誌より
の者たちがやって来るのが、ちらちら見え始めました。話し声も近くなりました。そうれつは、墓地へ入ってきました。人々が通ったあとには、ひがん花がふみ折られていました。


ごんは、のび上がって見ました。兵十が、
白いかみしも
白いかみしも 江戸時代、かみしもは武士が公の場で着るほか、町人や百姓も礼服として着ました。また、今の葬式では黒い服を着ますが、戦前までは白い着物を着るのが普通でした。ですから、兵十も白いかみしもを着ています。
をつけて、
位はい
位牌
死んだ人の戒名(主に死んでからつけられる名前)などを記した木の板。仏壇にまつるものはうるしを塗るなど立派に作りますが、葬式の際は白木の簡素なものを使います。
をささげています。いつもは、赤いさつまいもみたいな元気のいい顔が、今日はなんだかしおれていました。
「ははん。死んだのは、兵十の おっかあ おっかあ 母、または妻のこと。岩滑では夫が妻の葬式を出すとき、かみしもを着て葬列に加わることはなかったので、この場合は兵十の母であると考えられます。 だ。」ごんは、そう思いながら頭を引っこめました。
そのばん、ごんは、あなの中で考えました。「兵十のおっかあは、とこについていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで、兵十が、はりきりあみを持ち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎを取ってきてしまった。だから、兵十は、おっかあにうなぎを食べさせることができなかった。そのまま、おっかあは、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと思いながら死んだんだろう。ちょっ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」

第三章
兵十が、赤い井戸のところで 麦をといで 麦をとぐ 江戸時代、百姓が米だけの飯を食べることはめったになく、たいていは大麦などをまぜて食べました。大麦は米にくらべて煮えにくいため、一度ゆでたり、ひきわりにしてから米とまぜて炊きました。また、「とぐ」というのは、水のなかでこすって米や麦の表面についている糠を洗い流すことを言います。 いました。
兵十は、今までおっかあと二人きりで、まずしいくらしをしていたもので、おっかあが死んでしまっては、もうひとりぼっちでした。「おれと同じ、ひとりぼっちの兵十か。」こちらの物置の後ろから見ていたごんは、そう思いました。

ごんは、物置のそばをはなれて、向こうへ行きかけますと、どこかで、
いわしを売る
いわしを売る 魚は魚屋で売られるほか、朝、漁師から仕入れた魚を荷車につんで家々を売り歩く「行商」が行われました。いわしは、海でとれるマイワシ、ウルメイワシ、カタクチイワシのことで、たくさん獲れて値段が安かったため、これを中心に売る「いわし売り」もいました。
声がします。
「いわしの安売りだあい。生きのいい、いわしだあい。」

ごんは、そのいせいのいい声のする方へ走っていきました。と、弥助のおかみさんが、うら戸口から、
「いわしをおくれ。」
と言いました。いわし売りは、いわしのかごを積んだ車を道ばたに置いて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助のうちの中へ持って入りました。ごんは、そのすき間に、かごの中から五、六ぴきのいわしをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十のうちのうら口から、うちの中へいわしを投げこんで、あなへ向かってかけもどりました。とちゅうの坂の上でふり返ってみますと、兵十がまだ、井戸のところで麦をといでいるのが小さく見えました。
ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いました。

次の日には、ごんは山で
くり
くり 9月から10月に実をつける落葉高木。実は針のようなイガに包まれています。栽培種にくらべ、野生種のシバグリは実が小さいですが、古くから食用にされてきました。
をどっさり拾って、それをかかえて兵十のうちへ行きました。
うら口からのぞいてみますと、兵十は、昼飯を食べかけて、茶わんを持ったまま、ぼんやりと考えこんでいました。変なことには、兵十のほっぺたに、かすりきずがついています。どうしたんだろうと、ごんが思っていますと、兵十がひとり言を言いました。
「いったい、だれが、いわしなんかを、おれのうちへ放りこんでいったんだろう。おかげでおれは、ぬすびとと思われて、いわし屋のやつにひどいめにあわされた。」
と、ぶつぶつ言っています。
ごんは、これはしまったと思いました。「かわいそうに兵十は、いわし屋にぶんなぐられて、あんなきずまでつけられたのか。」
ごんはこう思いながら、そっと物置の方へ回って、その入り口にくりを置いて帰りました。
次の日も、その次の日も、ごんは、くりを拾っては兵十のうちへ持ってきてやりました。その次の日には、くりばかりでなく、
松たけ
松たけ 秋にアカマツなどの林に生えるキノコ。独特の強い香りを持ち、現在ではもっとも高級なキノコとされています。
提供:鳳来寺山自然科学博物館
も二、三本、持っていきました。


第四章

月のいいばんでした。ごんは、ぶらぶら遊びに出かけました。中山様のお城の下を通って、少し行くと、細い道の向こうから、だれか来るようです。話し声が聞こえます。チンチロリン、チンチロリンと、
松虫
松虫
秋に鳴くコオロギの仲間。体長は21ミリメートルほどで、薄茶色をしています。日当たりのいい草地に生息し、雄が「チ、チリリッ」と大きな声で鳴きます。唱歌「虫のこえ」では「チンチロリン」と鳴くとされています。
提供:伊丹市昆虫館
が鳴いています。
ごんは、道のかたがわにかくれて、じっとしていました。話し声は、だんだん近くなりました。それは、兵十と、加助というお百姓でした。

「そうそう、なあ、加助。」
と、兵十が言いました。
「ああん。」
「おれあ、このごろ、とても不思議なことがあるんだ。」
「何が。」
「おっかあが死んでからは、だれだか知らんが、おれにくりや松たけなんかを、毎日毎日くれるんだよ。」
「ふうん。だれが。」
「それが、分からんのだよ。おれの知らんうちに置いていくんだ。」
ごんは、二人の後をつけていきました。
「ほんとかい。」
「ほんとだとも。うそと思うなら、あした見に来いよ。そのくりを見せてやるよ。」
それなり、二人はだまって歩いていきました。
加助が、ひょいと後ろを見ました。ごんはびくっとして、小さくなって立ち止まりました。加助は、ごんには気がつかないで、そのままさっさと歩きました。吉兵衛というお百姓のうちまで来ると、二人はそこへ入っていきました。ポンポンポンポンと、
木魚
木魚
お経を読んだり、念仏をするときにたたいて鳴らす木製の仏具。魚のうろこの模様が彫られていて、内部は空洞になっている。
の音がしています。まどの
しょうじ
しょうじ 日本家屋で扉や窓に用いる建具。木のわくに紙をはり、外からの明かりをとりました。
に明かりが差していて、大きなぼうず頭がうつって、動いていました。ごんは、「
お念仏
お念仏 亡くなった人の一周忌、三周忌などの年忌にゆかりのある人々が集まり、お坊さんと一緒に仏壇の前で念仏を唱えること。終わった後、みんなで亡くなった人をしのび、お茶を飲んだり、食事をしたりしました。
があるんだな。」と思いながら、井戸のそばにしゃがんでいました。しばらくすると、また三人ほど人が連れ立って、吉兵衛のうちへ入っていきました。おきょうを読む声が聞こえてきました。


第五章
ごんは、お念仏がすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。兵十と加助は、またいっしょに帰っていきます。ごんは、二人の話を聞こうと思って、ついていきました。兵十の かげぼうし かげぼうし 影を擬人化(人でないものを人に見たてること)した言葉。 をふみふみ行きました。
お城の前まで来たとき、加助が言いだしました。
「さっきの話は、きっと、そりゃあ、神様のしわざだぞ。」
「えっ。」
と、兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。
「おれはあれからずっと考えていたが、どうも、そりゃ、人間じゃない、神様だ。神様が、おまえがたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんな物をめぐんでくださるんだよ。」
「そうかなあ。」
「そうだとも。だから、毎日、神様にお礼を言うがいいよ。」

第六章
その明くる日も、ごんは、くりを持って、兵十のうちへ出かけました。兵十は、物置で
縄をなって
縄をなって わらを細長くより合わせてひものようにすること。わらはそのままではかたいので、水で湿らせてから木の棒でたたき、やわらかくしてからないました。縄は物をしばったり、わらじを作るときなどに使い、家で使わない分は売ってお金にしました。新美南吉も中学生時代に小づかいかせぎのために縄をなっていました。
いました。それで、ごんは、うちのうら口から、こっそり中へ入りました。

そのとき兵十は、ふと顔を上げました。と、きつねがうちの中へ入ったではありませんか。こないだ、うなぎをぬすみやがったあのごんぎつねめが、またいたずらをしに来たな。
「ようし。」
兵十は立ち上がって、
なや
なや 農家が、農具や収穫した作物を納めておく小屋のこと。
写真は新美南吉の養家(公益財団法人かみや美術館分館「南吉の家」)
にかけてある
火縄じゅう
火縄じゅう
火のついた縄で火薬に火をつけ、弾をうち出す鉄砲。1543(天文12)年、ポルトガル人によって日本へ伝えられました。戦国時代から江戸時代にかけて、合戦や猟に使われました。
提供:新城市設楽原歴史資料館
を取って、火薬をつめました。そして、足音をしのばせて近よって、今、戸口を出ようとするごんを、ドンとうちました。
ごんは、ばたりとたおれました。

兵十はかけよってきました。うちの中を見ると、 土間
土間 家の中で、板の床をはらず、地面のままにしたり、たたきにした所。ムシロを編んだり、雨の日に農具の手入れをするなど、作業をするための大切な場所でした。また多くの場合、かまども土間につくられました。
写真は新美南吉の養家(公益財団法人かみや美術館分館「南吉の家」)
※たたき=土間の仕上げ方のひとつ。土間に粘土や石灰などをまぜ、たたいて固めたもの。
にくりがかためて置いてあるのが、目につきました。
「おや。」
と、兵十はびっくりして、ごんに目を落としました。
「ごん、おまいだったのか。いつも、くりをくれたのは。」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
兵十は、火縄じゅうをばたりと取り落としました。青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました。
わたしたちの村

「ごんぎつね」の作者、新美南吉は、1913年(大正2年)に愛知県知多郡半田町(今の半田市)の岩滑に生まれました。
中山

愛知県半田市岩滑西町1丁目、現在、「童話の森」になっている丘のこと。昔、この辺りは字中山と呼ばれていました。今、丘のふもとには新美南吉記念館が建っています。
小さなお城

戦国時代、中山には岩滑を治めていた中山勝時の城があったと伝えられています。しかし、実際は岩滑の町の常福院がある辺りにあった岩滑城が中山家の居城だと考えられています。
中山様

戦国時代から江戸時代のはじめにかけて岩滑を治めていた中山家のこと。天文12(1543)年に岩滑城主となった中山勝時は、今の知多郡東浦町や刈谷市で勢力を持っていた水野家の家臣で、後に織田信長にも仕えました。水野家の娘で徳川家康を生んだ於大の方の妹を妻にしていたため、家康の叔父にあたります。息子たちは水野家の家老をつとめたり、幕府に仕えるなどしましたが、なかには尾張藩で兵学を教えた家もありました。後にその子孫が岩滑に移り住み、南吉と深い交流がありました。
少しはなれた山

中山から北へ900メートルほどはなれたところに、権現山があります。南吉がノートに書いた「ごんぎつね」(権狐)では、漢字で「権狐」と書かれていることから、ごんが住んでいた「少しはなれた山」とは、権現山ではないかと言われています。
ごんぎつね

南吉のふるさとに「ごんぎつね」というキツネが本当にいたわけではありません。しかし、南吉が中学生の頃、中山のあたりにキツネが住み、村人から六蔵狐と呼ばれていました。六蔵狐は、畑仕事のお百姓から弁当の残りを分けてもらっていましたが、ある日、お百姓が忘れたタバコ入れを家まで届けたと言われ、狐の恩返しとして語り伝えられました。六蔵狐が死んだ時には村人がお稲荷様としてまつるということもありました。南吉もそんな人間と近い関係を持つキツネに興味を覚えたのか、中学時代に「六蔵狐」という童謡をつくっているので、もしかしたら、このキツネが「ごんぎつね」のヒントになっているかもしれません。
ぎつね

ネズミなどの小動物や鳥、こん虫などを食べるイヌ科の動物。日本にはアカギツネの亜種であるホンドギツネとキタキツネが生息します。昔からいたずら好きで人を化かすと言われ、多くの昔話に登場します。その一方、稲荷社では神の使いとして信仰されるなど、さまざまな面で人間と関わりの深い生き物といえます。
しだ

主に日かげや湿ったところに生える植物で、そうした場所にキツネが巣をつくることはあまりありません。ただ、コシダは日当たりのよいやや乾そうした場所を好んで群生します。
いも

日本では古くからサトイモが栽培されていました。また、江戸時代にはサツマイモやジャガイモも広まりました。
菜種がら

菜種は、アブラナの種子で、油をしぼって食用や火を灯すことに使います。採り入れは、根から抜き、乾そうさせて、種を竹や棒でたたき落としました。残った部分を干して乾かしたものを菜種がらと言い、よく燃えるため、カマドのたきつけに使いました。
百姓家のうら手

背戸口(裏口)から出ると、井戸、流しがあり、家によっては倉や風よけの竹林などが見られます。
※写真は新美南吉の養家(公益財団法人かみや美術館分館「南吉の家」)
とんがらし

トウガラシ(唐辛子)のこと。アメリカ大陸の原産で、日本へは戦国時代に伝わりました。果皮、種子が辛く、料理や薬味に使います。保存のため、軒下など雨のあたらない所につり下げて乾そうさせます。
もず

するどい声で鳴く大きさ20cmほどの小鳥。カエルなどの捕まえた生き物を食べずに木の枝に刺しておく「モズの早にえ」と呼ばれる習性を持ちます。
村の小川

岩滑の北がわ、半田市と阿久比町の境に矢勝川が流れています。裏の川という意味で「背戸川」とも言いました。
すすき

秋の七草の一つ。野山に生える多年草で、高さ2mほどにもなり、白い尾のような花をつけるためオバナとも言います。また、カヤとも言われ、屋根をふく材料にもなります。
はぎ

秋の七草の一つ。夏の終わりから秋にかけて紅紫の小さな花をつける小低木。写真はマルバハギ。
兵十

兵十は、「ごんぎつね」が書かれた頃、実際に岩滑新田に住んでいた江端兵重という人がモデルだと言われています。川や池での魚とりや鉄砲を使った猟が大好きで、大雨の時は必ず「はりきり」をしていたそうです。
はりきり

川ぞこに杭を打って川幅いっぱいに網を張り、その真ん中に付いている筒形の網に入った魚を獲ります。使う川に合わせて作るので大きさはまちまちですが、新美南吉記念館に寄贈されたものは6メートルほどの長さがあります。普通は待網と言いますが、岩滑では網を川幅いっぱいに張り切るという意味で「はりきり」と呼びました。
はちまき

気合を入れたりするために頭のまわりに手ぬぐいなどの布を巻くこと。固くねじって頭に巻く「ねじりはちまき」や、結び目を額に置く「向こうはちまき」があります。
うなぎ

長さ1メートルほどになる細長い魚。海で生まれた稚魚が川をさかのぼり、川や池で大きく育った後、ふたたび海にくだって産卵をします。栄養価の高い魚として、古くから食べられてきました。
提供:碧南海浜水族館
きす

岩滑では、鮠のことをキスと呼んでいました。ハヤとはアブラハヤ、ウグイ、オイカワ、カワムツなど、コイ科の淡水魚のうち中型で細長い形をしたものの呼び方で、ハエとも言います。写真はオイカワ。
提供:碧南海浜水族館
びく

つかまえた魚を入れておくために竹であんだかご。半田では「どうまん」と言いました。
ふくろの口

たてに長いはりきり網は、最後の部分がふくろのようになっています。入った魚が逃げないようにしばってあるので、ときどき開けては、魚を取り出したり、入りこんだ木ぎれなどのゴミを出したりする必要がありました。
はんの木

山野の湿った場所に生える落葉高木。田んぼのあぜや川の堤などによく見られ、高さ15~20メートルにもなります。建築や燃料に使われます。
お百姓
米などの農作物を作ることで暮らしている人々。農民。江戸時代には、武士や町人などのように身分を表す言葉でもありました。
いちじく

古くから栽培されてきたアラビア原産の果物。日本には江戸時代に伝わりました。漢字では「無花果」と書き、その名の通り、花をつけずに実がなりますが、じつは実のなかに小さな無数の花をつけています。
家内
自分の妻を呼ぶ言い方の一つ。
お歯黒

結婚した女性が歯を黒く染める風習。つぼに茶、くぎ、す、酒を入れて置いておくとできる汁と、虫がヌルデという木に寄生してできる「むしこぶ」を粉にしたものをぬると歯が黒く染まります。岩滑では、「ごんぎつね」が書かれた昭和のはじめまでは、まだお歯黒をしている人がいました。
かじ屋

炭、コークス(石炭を加工したもの)の火で金属を焼いて、打ちきたえて、農具や刃物を作ることを仕事にしている人。知多半島では大野(現在の常滑市大野町)の「大野かじ」が有名です。南吉の生家の近所にもかじ屋がありあした。
かすみをすいて

かみを櫛の歯にかけておとすこと。風呂に入ったり、かみを洗うことがあまりできなかった時代には、かみを整えるだけでなく、フケやホコリなどかみの汚れをとる意味もありました。
のぼり

丈が長くて幅がせまい布に、多くの乳をつけて、柱や竿に通して立てたもの。神社の祭りや相撲の会場で立てるほか、昔は合戦の際の軍旗としても使いました。
赤い井戸

うわ薬をつけていない、素焼きの土管を使った井戸のこと。半田のとなりの常滑で焼かれたものを用い、赤茶色の地肌をしています。かつて南吉の生家の向かいにもあり、南吉が毎日使っていた井戸もこの井戸でした。
表のかまど

かまどは、鍋や釜をかけて下から火を焚くために、土や石、レンガなどで築いた設備。「くど」「へっつい」とも言います。普段は屋内にあるものを使いますが、葬儀など大勢の人が集まるときは、食事の用意を大がかりにするため、屋外に作って煮炊きをしました。
村の墓地

昔はそれぞれの村が村はずれに墓地を持っていました。岩滑の場合、現在の公民館や区民館のあたりに墓地があり、ここが村はずれでした。この墓地は、「ごんぎつね」が書かれた2年後の昭和8年に、半田の他の地区の墓地と一緒になり、いまの北谷墓地に移されました。
写真は北谷墓地
六地蔵

仏教では、すべての生き物は六種の世界に生まれ変わりをくり返すという考え方(六道輪廻)があり、どの世界でも地蔵菩薩が救ってくれるようにと六体の地蔵像を並べてまつりました。墓地の入口に置かれることが多く、岩滑の墓地にあった六地蔵は、現在の北谷墓地(共同墓地)の入口に移されています。
ひがん花

田畑のあぜや川岸などに群生する球根性植物。日本に稲作が伝わった際に一緒に大陸からやって来たと考えられています。秋の彼岸のころに茎を伸ばし、赤い花をつけます。花が枯れ、茎が倒れたあとの冬に葉を出し、夏は球根だけが地中で眠っています。ソウレンバナ、キツネバナ、ミミダレソウなど、各地でさまざまな呼び名があり、仏教に由来してマンジュシャゲとも言います。田んぼや墓地のまわりでよく見かけますが、球根に毒があるので、そうした場所が動物に荒らされるのをさけるために植えられたものです。また、飢きんのときは、球根のデンプンをさらして毒を抜き、食用にすることもありました。
カーン、カーンと、かねが鳴ってきました

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カーン、カーンとかねが鳴ってきました 死んだ人を納めた棺を墓地や焼き場まで運ぶ際、かねをたたいて村を回り、葬列の出発を知らせました。死んだ人を収めた棺を墓地や焼き場まで運ぶ際、かねをたたいて村を回り、葬列の出発を知らせました。
白い着物を着たそうれつ

そうれつは、死んだ人を納めた棺をかつぎ、墓地や焼き場までみんなで歩くこと。昔は「野辺送り」と言いました。喪主が位牌を持ち、棺をかつぐ人、幡を持つ人など、役割が決まっていました。また、今の葬式では黒い服を着ますが、戦前までは白い着物を着るのが普通でした。
写真:大府市誌より
白いかみしも

江戸時代、かみしもは武士が公の場で着るほか、町人や百姓も礼服として着ました。また、今の葬式では黒い服を着ますが、戦前までは白い着物を着るのが普通でした。ですから、兵十も白いかみしもを着ています。
位牌

死んだ人の戒名(主に死んでからつけられる名前)などを記した木の板。仏壇にまつるものはうるしを塗るなど立派に作りますが、葬式の際は白木の簡素なものを使います。
おっかあ
母、または妻のこと。岩滑では夫が妻の葬式を出すとき、かみしもを着て葬列に加わることはなかったので、この場合は兵十の母であると考えられます。
麦をとぐ
江戸時代、百姓が米だけの飯を食べることはめったになく、たいていは大麦などをまぜて食べました。大麦は米にくらべて煮えにくいため、一度ゆでたり、ひきわりにしてから米とまぜて炊きました。また、「とぐ」というのは、水のなかでこすって米や麦の表面についている糠を洗い流すことを言います。
いわしを売る

魚は魚屋で売られるほか、朝、漁師から仕入れた魚を荷車につんで家々を売り歩く「行商」が行われました。いわしは、海でとれるマイワシ、ウルメイワシ、カタクチイワシのことで、たくさん獲れて値段が安かったため、これを中心に売る「いわし売り」もいました。
くり

9月から10月に実をつける落葉高木。実は針のようなイガに包まれています。栽培種にくらべ、野生種のシバグリは実が小さいですが、古くから食用にされてきました。
松たけ

秋にアカマツなどの林に生えるキノコ。独特の強い香りを持ち、現在ではもっとも高級なキノコとされています。
提供:鳳来寺山自然科学博物館
松虫

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松虫 秋に鳴くコオロギの仲間。体長は21ミリメートルほどで、薄茶色をしています。日当たりのいい草地に生息し、雄が「チ、チリリッ」と大きな声で鳴きます。唱歌「虫のこえ」では「チンチロリン」と鳴くとされています。提供:伊丹市昆虫館
秋に鳴くコオロギの仲間。体長は21ミリメートルほどで、薄茶色をしています。日当たりのいい草地に生息し、雄が「チ、チリリッ」と大きな声で鳴きます。唱歌「虫のこえ」では「チンチロリン」と鳴くとされています。
提供:伊丹市昆虫館
木魚

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木魚 お経を読んだり、念仏をするときにたたいて鳴らす木製の仏具。魚のうろこの模様が彫られていて、内部は空洞になっている。お経を読んだり、念仏をするときにたたいて鳴らす木製の仏具。魚のうろこの模様が彫られていて、内部は空洞になっている。
しょうじ

日本家屋で扉や窓に用いる建具。木のわくに紙をはり、外からの明かりをとりました。
お念仏
亡くなった人の一周忌、三周忌などの年忌にゆかりのある人々が集まり、お坊さんと一緒に仏壇の前で念仏を唱えること。終わった後、みんなで亡くなった人をしのび、お茶を飲んだり、食事をしたりしました。
かげぼうし
影を擬人化(人でないものを人に見たてること)した言葉。
縄をなって

わらを細長くより合わせてひものようにすること。わらはそのままではかたいので、水で湿らせてから木の棒でたたき、やわらかくしてからないました。縄は物をしばったり、わらじを作るときなどに使い、家で使わない分は売ってお金にしました。新美南吉も中学生時代に小づかいかせぎのために縄をなっていました。
なや

農家が、農具や収穫した作物を納めておく小屋のこと。写真は新美南吉の養家(公益財団法人かみや美術館分館「南吉の家」)
火縄じゅう

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火縄じゅう 火のついた縄で火薬に火をつけ、弾をうち出す鉄砲。1543(天文12)年、ポルトガル人によって日本へ伝えられました。戦国時代から江戸時代にかけて、合戦や猟に使われました。提供:新城市設楽原歴史資料館
火のついた縄で火薬に火をつけ、弾をうち出す鉄砲。1543(天文12)年、ポルトガル人によって日本へ伝えられました。戦国時代から江戸時代にかけて、合戦や猟に使われました。
提供:新城市設楽原歴史資料館
土間

家の中で、板の床をはらず、地面のままにしたり、たたきにした所。ムシロを編んだり、雨の日に農具の手入れをするなど、作業をするための大切な場所でした。また多くの場合、かまども土間につくられました。写真は新美南吉の養家(公益財団法人かみや美術館分館「南吉の家」)
※たたき=土間の仕上げ方のひとつ。土間に粘土や石灰などをまぜ、たたいて固めたもの。

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